2014春清里と、それ以前の感想「心地良いリトリートだった」方

  • リトリートに繰り返し参加するっていうのは、何かを得たいからではないんだ。何かが欲しいということではなくて、リトリートのその場にいることが、自分がリトリートの一部となって溶け去ることが、単純に喜びであるからなんだ。(30代 男性)
  • リトリートの思い出‥
    リトリートがいよいよ幕を閉じるとき、今西さんがリトリートに関わった全ての人たちに感謝の意を述べているとき、僕の奥深くから何かがこみ上げてきた。魂からの声が「これはそうそう起きることではないんだ」って言うんだ。

    そのとき、僕は入れ代わり立ち代わり何回も生きてきたけど、こうして何人もの人々が一度に会して、プレゼンスでいるなんてことはとても珍しいことなんだとはっきり分かった。

    魂はこういう機会を待っていたんだということを知って、そして、もうそのリトリートが今終わる、集まったみんながまた離れるときがきた、そしたら涙がぶわーってきて、何が何なのか分からないんだけど、無数の糸が偶然のように一点で交わって、このリトリートが発生したことへの感謝の波が涙になって止まらなかった。

    本当に嬉しくて嬉しくてひとり泣いてると、旅の仲間が抱きしめてくれて、僕はまた嬉しくなって‥‥愛を熱心に学ぶ魂の仲間が、ひとりひとり違う道をひとり歩む仲間がこうして状況を報告し合うのって、そうそうないんだ。それが頻繁に起こる時節が来てる。

    終わりはくるんだ。残念でもあるけど。この旅がまた終わってまた始まり、そんなことがずっと続くのかと思うと、嬉しさと吐き気が混ざった気持ちになる。(笑)まだ超えられずにいる部分がある。吐き気を覚えるなんて、まだ観念が先行してて、本当に本当に幻想を幻想だと見通せてないところがあるんだな。(30代 男性)
  • リトリートに参加すれば何か能力が身についたり、何かの資格が得られたりなど、エゴが喜びそうな分かりやすい御利益はない。だからレナードのリトリートに人を誘うのは難しいなと私は思った。エゴ的動機づけで得られるものを通して本当の喜びは得られない、という気づきを少しでも経験した人でなければ、レナードのリトリートに来ることはないのだろうと思う。

    それにもかかわらず、今や全ての人がワンネスを求めている。ある人はワールドカップのサッカーの応援を通して、ある人は大好きなアーティストのライブを通して、ある人は大好きな仕事を通して。たとえそれがなんであろうと、それに好んで従事する人は、その活動の中でワンネスのかけらを経験している。ワンネスという言葉がしっくりこなければ一体感でも良い。

    スポーツや集団行動を通して何とも形容し難い強烈な一体感の経験をした人は、そのときの感触をまたいつか体験したいと思って暮らしている。また一体感という言葉でなくとも、それを愛と呼んでもいい。人と人とのつながりを通して我々は愛のカケラを誰もが体験している。

    人は恋人を通してしか愛を感じられないと思っている。しかし、恋人と一緒にいるとき、いつか経験したあのなんとも言い難いあったかい感触、恋人と自分との境界がなくなっていく感じ。それが本当はいつでも感じられるとしたらどうだろう。その入り口が、そのエッセンスがレナードのリトリートにある。(30代 男性)